姫路を舞台に播磨各地が登場する今年2014年のNHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」。
毎回、本編のあとにその回の舞台となった官兵衛ゆかりの地が紹介される紀行に
当、英賀神社も英賀城とともに、3月9日(日)に放送に登場いたします。
英賀(あが)は播磨国風土記にもある英賀彦・英賀姫を祀る
英賀神社から生じた地名で、現在は兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町となっています。
室町時代初期に築かれた英賀城を中心とする城下は
秀吉により落城するまで、姫路城下を凌ぐ大いに栄えた港町でした。
乱世の戦国時代、英賀御堂を拠点とする一向宗の門徒が多かった英賀衆は
黒田官兵衛の説得にも応じず毛利方についたため
信長の命による秀吉により攻め滅ぼされました。
この戦では、同じ播磨の地にありながら
姫路の黒田官兵衛も英賀攻めの戦に加わったとされています。
落城後、英賀城と城下は焼き尽くされたため
今では英賀神社の境内に土塁跡が残るのみとなっています。
各地に残っていた土塁は、昭和13年(1938)から始まった区画整理により
ほとんどが消滅してしまったため、大変貴重な遺構となっています。
『英賀城』について
英賀城の創建は遠く古代にあり、その構相は築城史上極めて特殊の形式に属するものであります。
抑々当地は英賀彦神英賀姫神の開拓創始の地であってその起源は遠く神代に発しております。
彦姫二神については播磨風土記に英賀の地名はこの神名に因ることを記し、又三代実録には元慶五年神位授与のことが記載されていて、古く朝廷の尊崇きわめて篤く衆庶の敬信すこぶる深かったことを物語っているのであります。
当地が上古において播磨国の府中となり又英賀の市として栄え、播陽文化発祥の地とも故ないことはないのであります。
さて英賀城は国府庁の跡を受け平安時代において早くも一城郭をなし、鎌倉時代には吉川、赤松両氏が居城し、室町時代に至り赤松常陸介祐尚卒後嘉吉元年正月、三木右馬頭越智通近が城主となるに及んで、盛んに経倫を行い大いに城郭を改修し、規模雄大な本丸・二の丸等の居館を営み、古代築城の手法と都市防禦の構相を生かし海内屈指の港城を構築して、英賀岩繋城と称しました。
通近は四国伊予の国守河野氏の一族でありまして、通近から近重、通重、通武、通安、通規、通秀、通明、通秋、安明、相承けて城主となりました。
第五世通安の時、更に城郭の規模を拡大し威風四隣を圧するものがありました。
本城主の支配した領地は東は高砂から西は室津に至る播磨灘沿岸全地域にわたり、その領米は三十六万俵に及びました。
当時の城下町は四十九ケ町を数え神社一(現在の英賀神社)寺院は英賀本徳寺を始め三十五ケ寺を算し、三木氏歴代の治績大いに挙り西国警護の重鎮となり御着城、三木城と共に播磨三大城と称せられ殷盛を極めたのであります。
然るに羽柴秀吉の中国平定の途その攻略に遭い城兵主従この要害によって力戦奮闘を重ねましたが天正八年二月十三日、遂に落城、落城当日の戦死者は、本城のみで千二百三十七名を数え、城郭、社寺、城下町はすべて兵火により灰燼に帰し、士民亦離散して三木氏十代の栄華は一睡の夢と化しました。
英城日記(天正十年僧道定編纂)に依れば初代通近の築城当時本丸は東三十七間、西三十九間三尺、南五十二間、北三十一間一尺、二の丸は、東五十一間一尺、西五十間、南北三十四間三尺とあり、五代通安の大改修に
当っては方二町の市庭館を中心に土井、堀内、井上の四本家の館をはじめ諸士の居館、各櫓、城門並に数多くの武庫倉庫に至るまで完備して壮観を極めたことを記してあります。
又当城の経始築城の計画線は本邦築城史上極めて特異のものといわれております。
即ち上古からの自然の地形をそのまま活用して西は夢前川、東は水尾川を限界とし、北部は豊富な湧泉を利用して頗る深い外濠を造成し、南面は内海を利用して軍港とし警備厳密、守護甚だ具っておりました。