英賀彦神(あがひこのかみ)・英賀姫神(あがひめのかみ)
英賀彦、英賀姫の二神とは、『播磨国風土記』餝磨郡・英賀の里(しかま・あが)の条に「伊和大神のみ子の阿賀比古・阿賀比売の二はしらの神がその処に鎮座しておいでになる。」と記されている神々です。
神代の昔、伊和大神の御子 英賀彦神・英賀姫神は、祖神の命により当地を本拠として播磨灘沿岸地域を開拓創始し、庶民安堵の国土を修理固め成された総産土大神であります。ゆえに古くより英賀国主大神として祀り、元慶五年(881年)神位従五位下に昇叙され、国司武将を始め衆庶は、創業開発の神、夫婦和合の神と仰ぎ尊信の誠を捧げました。
天満天神(てんまてんじん) 【菅原道真公】
菅原道真公は承知12年(845)6月25日に菅原是善の三男としてお生まれになり、幼少時から学問詩歌の才に優れ、宇多天皇や醍醐天皇に重用されました。
右大臣にまでのぼりつめるのですが、左大臣藤原時平のざんげん(陰謀でうその証言)により太宰権帥に左遷され、不遇のうちに延喜3年(903)2月25日に亡くなります。没後、皇太子の急逝・宮中への落雷・天候不順などが続き、雷神・祟り神として恐れられていましたが、今では「天神さま」としてお祀りされ、「学問の神様」として親しまれています。
菅家(かんけ・かんか)、菅公(かんこう)ともよばれ、「飛梅伝説」など様々な伝説が残されています。
八幡大神(はちまんおおかみ) 【誉田別尊(命)(ほんだわけのみこと)】
仲哀天皇の皇子で、御母は神功皇后です。仲哀天皇が熊曽国を撃とうとされ、天皇が御琴をひき建内宿称を沙庭として神の命を請われたとき、皇后に神懸かりして、西方に宝の国があり、その国を賜うべきことを告げられました。天皇が崩ぜられた後、皇后は神の教えのままに新羅と百済の国を制し、戦勝の後筑紫の国に凱旋して生まれた皇子が誉田別尊です。第15代天皇として御在位の間、文学を奨励、殖産興業を盛んにし国力の増強、外国との交流に意を用いられました。崩ぜられし後、その徳を称えて八幡大神と崇められ、ご縁の深い北九州の地に宇佐八幡宮が祀られました。
春日大神(かすがおおかみ) 【天児屋根尊(命)(あめのこやねのみこと)】
天岩屋戸前(あめのいわやど)に集える神々の一柱で、「大化改新」で知られる中臣鎌足(=藤原鎌子)の祖先でもあります。また、英賀神社本殿正面の左の扉にお祀りされており、春日大神として広く信仰をあつめています。
天岩屋戸神話で御存知の方も多いと思いますが、岩屋戸の前で太祝詞(ふとのりと)を奏す役を受け持っていた神様で、天照大神(あまてらすおおみかみ)がその美辞を賞でられたと『日本書紀』の一書には書かれています。